座間味島に人が住み始めたのは、縄文時代前期からといわれ、 古座間味貝塚から出土し
た、住居形態や数々の土器、貝製品、石器等がそれを証明しています。 琉球王国時代には、
中国との進貢貿易の唐船航海路上の避難港として、風待ちの港として、阿佐地区の阿護の浦
は、重要な役割を果たしてきました。 いまでも残る阿護の浦北には、唐船グムイと呼ばれる唐
船が繋留した深みがあります。 また、座間味の人は海事に優れ、多くの人が船乗りとして活躍
したそうです。 その後、明治後半からは、 鰹業が盛んになり「ケラマ鰹節」は、 県内外にも名
を馳せ、村は繁栄しました。昭和初期、遠く南洋群島へ出稼ぎに行く人が増え出します。 大正
から戦前までは、鉱山の島として、 銅鉱の採掘が現在無人島の屋嘉比島、 久場島で盛んに
なり、 生産量は、県の99パ-セントを占めるまでにもなりました、 本土からの出稼ぎの人が多
く数百人の人が住んでいたと聞きました。 その後第二次世界大戦勃発。 昭和20年3月26日
「米軍初の上陸第一歩之地」として、この美しい海が水陸両用戦車で埋め尽くされました。空
には戦闘機が飛び交い、家や山々は燃え、 逃げ惑う人々、息を呑み震え隠れる人々、座間味
部落の中だけでも、150人近い住民が尊い命を失ったのです。 平和の尊さを、この島の人々
は、静かに訴えています。語るには余りにも悲しすぎる出来事を、皆多くを語る事はありませ
ん。 その他にも毎年6月23日「沖縄県の慰霊の日」に,座間味の子供たちへ、自らの体験や
聞いた話を、 小本にして贈って下さいる方もいらっしゃいます。 今は、観光地として、美しい
海、ダイビングの島としてある座間味島に、こんな歴史がある事を知ってもらいたいものです。